Shigeko Hirakawa

白 水社『ふらんす』 2001年5月号

平 川 滋子

《コンテンポラリー・アート》
アートの出発点に出会うとき

〔テレビの常軌を逸脱する「眠る男」〕

 夜中、部屋の電気を点けると、ボヨーンと同時にテレビも点いた。壁のスイッチに配線をまとめてあるから、本体に触りもしないのにテレビもときどきひとり でに点いてくれたりする。
 出てきた画像は白黒だ。古いフィルムなのか。男性が上半身裸の腹掛け一枚で寝ているところを、上から撮っている。寝息をたててちっとも動きだす気配がな い。チャンネルを変えてみる。真夜中だから面白い放送などあるわけもない。ニュースの再放送くらいなものだ。さっきのチャンネルに戻ってみる。男は相変わ らず寝ている。カメラアングルも体の位置もそのまんま、画面の不精髭の男は軽いいびきをたてながらさっきと同じようにひらすら寝続けている。
 「ん?」凝視してみるが、男は動かない。ずーっと寝ている男がずーっと撮られていて、テレビがこれまたずーっと放送し続けている。この「ずーっと」の重 なりが尋常ではない。ナレーションがあるわけでもないし、テロップで説明するでもない。本当に眠っているらしい男だけが、延々と映っているだけなのだ。
 見れば見るほど普通ではない。真夜中の皆が眠っている時間である、皆眠っているのだからテレビも眠っている男の映像を流す、などということがあるだろう か。
 いつのまにか我々は、長さの決まった番組や何分おきかのコマーシャルに慣らされてしまっているから、普段のルールが守られないと不安になったりする。 フィルムなのだろうか、ルポルタージュなのだろうか、ニュースかも知れないし、ひょっとしたらコマーシャルかも知れない、などと頭のほうも勝手に既知の項 目に当てはめてみたりする。でも、先程から寝息だけを発している男はすっかりそんな枠組からはみ出して、睡眠に説明は要らないとばかりに無頓着に画面に映 り続けている。見れば見るほど我々は、ただ眠っているだけのこの男が、いつものテレビのリズムを完全に壊してしまっていることに気づかされることになる。
 テレビ番組のどのカテゴリーにも属さない「眠る男」は、恐らく誰かのビデオ作品だろう。人間の活動は起きているときだけが全てなのではない。睡眠も生物 の根源的活動の一つである。ビデオの主題は、まさに人間の覚醒と睡眠の、意識の表と裏なのだろう。構成し組織される覚醒時の活動に対して、眠ってしまって 意識が無い睡眠状態はこれだけ違う、ということが、茶の間に直結するマス媒体が放送することによってさらに強調されている。ARTEというこのテレビ局 は、世間の習慣などなんのその。ルールなどというものは所詮人が作ったものだから、いつでも変えることができる、とでも思っているのか、時間制限もコマー シャルも振り捨てて放送している。
 一方、眠っている男の映像効果は、妙に絶大である。他人の寝姿をテレビでじっと見ることほど詰まらないことはない。「見」ていることが我慢になり始め る。続けて見ていてどうするの、という感じになってくる。テレビのほうも、視聴率なんていいから早くあなたも寝なさい、と言ってるみたいに思えてくる。覚 醒もときに生物の生理に屈する。結局テレビを放り出して寝てしまう。「眠る男」はまた、マスメディア自身が自己の存在を根本から問い正すビデオであった、 と言うこともできるのだ。

 

〔霊感を授けるのはだれか〕 

「BHVはアーティストに霊感を与えます」という展覧会が行われている。BHVというのは、パリ市庁舎の真向かえにある生活用品のデパートだ。大小の工 具、木工具、庭園用品、家具、家電、画材、文房具、衣類と、取り扱う商品の幅は桁違いに広く種類も豊富である。19世紀半ば、オスマン男爵のパリ近代化計 画で一群の巨大なデパートが出現した。これを契機に量産された製品は市中に溢れ出し、旧来の小売商が圧迫され激減した。産業革命の落とし子でありかつ近代 産業の一大供給者である。その創立145 年になるというBHVの4階で展覧会が行われている。特別に会場があるわけではない。エスカレーターの踊り場にアーティストと作品を紹介するチラシが山積 みされている。「かつてマルセル・デュシャンはBHVで瓶立てを買って作品にした」という。よって「BHVはアーティストにとってもアイデアの宝庫」であ るから「現代アートの展覧会を企画した」のだそうだ。ワインの瓶を洗って乾かすために立てる金属性の、ちょうどクリスマスツリーが骨だけになったような形 の瓶立てを、デュシャンが作品にしたのは1914年のことだ。デュシャンは買い物に行く前から瓶立てを買って作品にするつもりだったのか、あるいは、たま たま買った瓶立てが作品になってしまったのか、そこのところはよく分からない。すでに前年、自転車の輪を台所のスツールに取り付けて車輪が回転するのを 「絵を見るより気分良く眺め」たりしているから、作品になりそうなものを探しに出掛けたら出会ったのが瓶立てだったというのが現実に近いだろう。自分の手 で制作せずに、大量生産で作られたものを用いたので「レディ・メード」と名付けた。商品棚に並べられているときは他の商品となんら変わらないが、一端買わ れてデュシャンの家に持ち込まれたときから瓶立ては普通の瓶立てではなくなった。形を変えたのではない。物の意味が人の手を介することによってちょっとず つ変化することが、デュシャンの興味の中心だったのだ。

 85年後の今日、今度は14人のアーティストたちがデパートの商品の山の中を舞台に仕事を試みている。4階の商品と種類の量は圧倒的だ。壁紙、カーテ ン、バスタブ、シャワー、材木、本棚、布、ペンキやニス、セメントの類がところ狭しと積み上げられている。バスルームが作られている隣に蛇口だけを山のよ うに取り付けたピラミッドが並んで聳えているかと思うと、把手のデザインが何百と並んだ引き出しの壁が立ちはだかる。作品を探して品物のあいだに分け入る と、却って商品やディスプレーのほうが不思議な構築物に見えてくる。デパートはただでさえ様々な人達のアイデアで満杯なのだ。

 作品はデパートの日常を邪魔しないように共存している。ペンキ売り場の脇に、手作りらしいジャムの瓶詰が山積み・されている。あってはならない食料品が ある、デパートをよく知ってる人には、これがもう変だ。脇のビデオの中では床の穴が映っている。「床の穴埋め作業にはどこそこの何とかセメントが便利」と でもいう、製品紹介ビデオのようだ。でもこれはちょっと違う。ビデオの中の作業服の男は、セメント用のヘラを持ち、ジャムの瓶をこじ開け、ヘラにつけて穴 にこすりつけた。ジャムはどろんと透明にのびて床の穴が塞がるはずもない。目的にそぐわないもの、が穴塞ぎに使われている。作業服の男はさらにジャムを刷 毛につけて壁塗りをし、床磨きをし続けた。床の穴の中でいつまでも固まらないジャムの違和感が、妙に脳裏にへばりつく。見ている人は「何でまたジャムなん か」と思う。セメント売り場が目と鼻の先だから、「あの製品を使えばいいのに」と思う人もきっといる。「家の代わりにパンに塗れば食べられるのに」と言う 人もいるに違いない。作業服の男の行為がいずれかの目的を果たしてくれるといい、と願う人達の思考方法が、いろんな風に浮き彫りにされてしまう。行為と道 具がてんでにバラバラでいかにも目的達成のおぼつかない作業服の男は、果して「皆が考える『役割』とは何だ」と問いかけている。「人間は、用途にばかり注 目して見えない規則に縛られ、自分で自分の行動をせばめてはいないだろうか、自由は規則の外にあるのに」とでも言いたいのだろう。

 デュシャンは、事物の本来の意味を転倒し消し去ったときに見えてくる新しい様相に注目した。レディ・メードは日常のオブジェが美術の中へ雪崩込むきっか けを作っただけではなく、以降の芸術運動に決定的な影響を及ぼし、今日も至るところでアーティストに霊感を与え続けている。

 
ひらかわ しげこ