Shigeko Hirakawa

白 水社『ふらんす』 2000年1月号

平 川 滋子


《現代アートの必需品》 第十話 
羊とアーティスト・イン・レジデンス
 
 「皆さんお揃いのようなので、出発します」
 バスのドアが閉まると、アソシエーションの事務局長をしているリズがマイクに向かって細い声を出した。太った体からそのまま出てくるようないつもの野太 い声が大勢の人の前で取り作られて、まるで別人が喋っているのかと思うくらいのか細さである。

 「今日のスケジュールは、皆さんにお渡ししたコピーにある通り。ジルベール・デッラ=ノーチェの展覧会を見た後は、六時から四人のパネラーによるシンポ ジウム。夕食を終えて同じバスで九時半にランブイエを出発してパリに戻る予定です。これからランブイエまではパネラーのご紹介を致します」

プチ・パレの前に停まっていた3台のバスは、満杯の人を乗せて渋滞の道路をゆっくり動き出した。アーティスト・イン・レジデンスの期限が終わりに近づいた ので、仕事をまとめて発表するから見に来い、と言うジルベール・デッラ=ノーチェの招待状が届いたのは二週間ほど前のことである。文化省からお金をもらっ てランブイエで仕事をしているという話は以前から聞いていたが、アトリエを出る期限が近づいたらしい。

 ランブイエには農業省が管理をする国立牧羊場があり、歴史建造物があったり、羊が居たりするのは知っているが、そんなところにアーティストのアトリエが あるという話は聞いたことがなかった。腑に落ちない顔でもしていたのか、ジルベールは聞き耳を立てている私に気が付いて、
「へっへっへ。俺の作品にはモチーフに羊がでてくるだろう。仕事のテーマさ」
と言って、ニタニタして見せた。それにしても、羊が仕事のテーマ、と言う理由だけで、羊のいる国立牧羊場に入り込んで仕事ができるというのも少々飛躍した 話に聞こえる。よくよく訳を聞いてみれば他でもない、ジルベールのアーティスト・イン・レジデンスを仲立ちして実現させたのは以前からよく知っているアソ シエーションなのであった。
「なるほど、彼らならこういう企画も可能かもしれない」
その名前には確かに納得させられるものがあったのである。

 アーティスト・イン・レジデンスとは、手っ取り早く言うとアーティストが自由に制作のできる時間と空間を提供するシステムのことである。作家によって仕 事がまったく異なるように、アーティスト・イン・レジデンスも内容はいろいろである。ジルベールと国立牧羊場を結び付けたアソシエーションは、企業や病院 や学校といった普段アートとあまり関わりの無いところへ一,二年の期限でアーティストを送り込み、社会生活とアートを結び付けることに主眼を置いた一風 変った活動で知られた組織であった。大方の場合、交渉先にちゃんとしたアトリエがあるわけではない。空いたオフィスや病室が、アーティストが入ることでア トリエに早変わりし、学校の校庭がパフォーマンスの舞台になる。ジルベールの場合、ランブイエのアトリエは「羊の納屋」なのであった。
「納屋、と言ってもな、馬鹿にはできないぜ。軽く二百平米はあるんだ」
 そんな広大な空間が一人の作家に自由になるのか。一度行ってみなくてはなるまい、と兼々思っていたところへの招待状であった。書類のような分厚い招待状 に目を通すと、展覧会とシンポジウムで構成された半日がかりのランブイエ・ツアーは、羊に因んで《生け贄》というテーマで括られているのが読めた。

 高速を下りたバスは、紅葉した林の中をゆっくりと進んで大きな門をくぐり、建物からは大分離れた空き地に三台が並んで停車した。バスを降りると、誰が統 率するとも無く皆ぞろぞろと歩き出し、建造物の見学が始まった。展覧会だけが目的で来たのかと思ったら、歴史のあるランブイエ・ディスカバーも兼ねていた らしい。なるほど、山ほど人が来ているのはそういう理由もあったのだ。納得しながら見学に加わって歩いていると、<展覧会>という小さい矢印をつけた建物 が現れた。ドアを押すと一階は干し草の山である。ときどき合間から大きな毛玉のような羊が見え隠れするのを横目に見ながら、壁に張り付いた階段を上ると、 さっと視界が開けた。大きな作品がゆったりと置ける空間は、確かに広大である。
「やあ」
 待ち受けていたジルベールが、ニタニタしながら挨拶をした。広い仕事場は木造で、良く見れば壁が所々透いて外が見えるという粗漏さであった。外気が容赦 無く吹き込んで、ジルベールが自分でつけたらしいスポットライトだけが皓々としている。別に言う必要も無かったのだが、つい感想が口をついて出た。
「広いのはいいけど、ちょっと寒そうね」
「ああ、羊は暖房が要らないからな」
立派な概観の羊の納屋はやっぱり羊のためのもので、人間が仕事をするには少々都合が悪そうに見える。
「羊が下にいるから、羊の体温が上がってきて少しはいいことになっている」
いくら助成金をもらいながらの仕事でも、現場の状況を受け入れながらの社会交流は楽ではない。

 大分日が傾いたところで、全員が入れるような巨大な納屋に辿り着くと、そこはシンポジウムの会場であった。長いテーブルが三列ほど並べられ、パネラーら しき数人が前のテーブルにこちら向きに座って、やがてリズが真ん中に立って司会を始めた。
「本日は、皆さんにおいでいただき有り難うございます」
「え・え・え」
「シンポジウムは」
「め・え・え」
リズの声と張り合うように誰かが呻いた。
「パリ第一大学の」
「メ・エ・エ」
「社会学者・・・」
「メ」
呻き声のもとを突き止めようと見渡せば、大講堂に変貌した納屋の右側と後方には囲いがあり、なんと、羊が数頭、シンポジウムに同席して蠢いているのに気が ついた。
「宗教における」
「メ・エ・エ」
「羊の役割は」
「メ・エ・エ」
「羊は」
「メ・エ・エ」
自分のことを話題にされていると知ってか、合いの手を入れていた納屋の主も一段と高い声を張り上げた。客席のどよめきが爆笑となり、とうとう収拾を付けら れなくなったリズは苦笑いをしながら話を中断した。話が中断すると不思議に羊も黙る。騒ぎの波が静まりかけたところで最初のパネラーが立って話を始めた が、合いの手を入れていた羊は疲れでもしたか、しばらくすると鳴くのを止めた。
周りではシンポジウムの最中を、あたふたとエプロン姿の人が行き来している。そう言えば、本日は夕食付きのツアーなのであった。外から肉の焼ける香ばしい においがし始めるのを嗅ぎながら、じっと話を聞いていたが、ふと、焼かれている肉は何だろうと思った瞬間、愕然とした。ひょっとしたらこの肉は、羊、なの ではないか。突然電気が点いたように、羊がそのまま串に刺されて焼かれている姿が頭の中に沸き上がった。我ながら思い過ごしであろうと思いつつ、どうして も見たい衝動に駆られて立ち上がり、そっと出口から頭を出して煙の上がっている方向を見遣った。するとそこには、串刺しにされた羊が丸ごと、それも二頭 も、回転しながらほんとうに火の上で焼かれていたのであった。

 羊とクスクスを平らげたツアーの一行は満足げに帰途に着いた。生きた羊の目の前で、まさか仲間の羊を食べることになるとは、想像だにせぬ出来事であっ た。いかに《生け贄》とて、神の代りに人間が満腹の恩恵に浴してしまったのだ。長い間暮らしているが、まだこの国にはよく分からないことが多い。
 問いただしたところ、羊はジルベールの「出所」祝いに、ランブイエの事務局が供出したものだったという。
ひらかわ しげこ