Shigeko Hirakawa

白 水社『ふらんす』 2000年2月号

平 川 滋子


《現代アートの必需品》 第十一話
 
 風が強く吹いたかと思うと、薄暗い空からぱらぱらと冷たいものが落ちて来た。材料を運んでくるはずのトラックを待っている間に雨が降り出したのだ。ぐる りを見回しても、平原の真っ只中と言っていいような、地平線まで素通しの現場には、雨を凌げる家などはない。仕方無しに手に持っていたカバンで頭を覆い、 次第に強くなる雨足に耐えながら濡れそぼっていると、一台のジープがこちらに向かって走って来るのが見えた。
ジープは目の前で止ると、ドアがさっと開いて、運転台のジェリイが、
「早く、乗った乗った」
と私を促した。
「トラックが遅れているんだ。まだ時間がかかって当分来れないというから迎えに来たんだよ」まったくいいときに来てくれたものだ。このまま雨の中で待たさ れたら、たまったものではなかった。
「また戻ってくるさ」
ジープは私を乗せて一旦センターに戻り、また改めて出直してくれるらしい。
「ついでにセンターにある長靴を用意しとこう、その靴じゃあ仕事は無理だ」
私のジョギングシューズを見ながらジェリイが言った。よく気が付くアシスタントである。
恐らく三十メートルを越す大掛かりな作品には助手が二人は欲しい、と申し出ていたが、何しろ小さい町のことで人手が足りず、本来はトリ・サン・レジェ市役 所のスポーツ部を担当しているという彼が一人、私の助手につくことになったのであった。

 トリ・サン・レジェは、フランス北部のノール県にある小さな町である。起伏の大きい広大な土地にポツポツと煙突の見える簡素な工場地帯であった。
「ほんとなら、こんな大規模な展覧会は隣のヴァランシエンヌくらいの大きな町でやるべきなんだ」
とピエールがパイプに火を点けながら言った。確かに、離れ小島のような小さい町よりも大きい町の方が見に来る人も遥かに多いだろうし、そのほうが我々も張 り合いが出る。
「いろんな問題があって、大きい町は市議会レベルですでに時間が掛かりすぎる。小さい町の方がずっと話がまとまり易いんですよ」
企画の手伝いをしているミシェルが口を挟んだ。いや、口を挟んだのはピエールのほうで、ミシェルはそれに答えたに過ぎなかった。オリエンテーリングの最中 のミシェルの話はまだ済んでいないのである。
「ところで、昼はセンターの食堂で食事が出ますが、夜は食堂が機能しないので、皆さん各自で何とかしてください」
「近隣にレストランはあるのか」
と一人のアーティストが訊ねた。
「車で三十分ほど行くと、セルフサービスがあります」
とミシェルが答えた。言われて初めて気がついたが、センターの周辺は買い物のできる店もなければ、カフェやレストランの看板すらどこにも見当たらぬ、農家 がぱらりとあるだけの不便を通り越した辺境の地なのであった。

 トラックが来るという連絡を受けて、再び現場に向けて出発することにした。ジェリイが持って来た帽子付きの分厚い雨合羽と膝まで来るゴム長を身につける と、完全武装状態である。固い合羽は体を折り曲げるたびにバリバリと大きな音を立てた。走るジープの窓から遠方に豆粒のような一台のトラックが見え始め た。
「あれだ」
所々思い出したように生えている木々のほかは、2台の車が一点を目指して合流するように走るのがよく分かるほど、何の遮蔽物も無い平原である。きっちり計 りでもしたかのようにわれわれは同時に現場に着くと、皆簡単に一言挨拶しただけで、直ちに荷台の材木を降ろし始めた。雨に濡れた木はつるつる滑る。固い合 羽はバリバリ音を立て、帽子に当る雨はボタボタと大きな音を立てた。作業の間中「バリバリ、ボタボタ」は耳の中で大反響をし、他の音の聞こえる余裕もな い。背中を、ぽんと叩かれて顔を上げると、ジェリイが何やら口を動かしているのが見える。私は直立して帽子から両耳を出した。そうでもしなければ人の声な ど聞き取れもしないのである。
「積めなかった材料がまだ半分倉庫に残っているから、これからトラックが引き返して取りに行ってくれるそうだ」
今日中に現場に材料が来れば、明朝から制作に取り掛かれるからありがたい。
「三十分ほどで戻って来る」
そう言って、トラックの運転手は運転台に上がった。
「悪いけど、僕もそろそろ」
時計を見れば五時を回る時刻である。ジェリイの退社時間が来たということらしい。
「また、明日九時に」
時間厳守のジェリイのジープは地平線に向けてゆっくりと遠退き、完全装備の私だけがぽつりと一人、雨の降り続ける平原に取り残されることになった。

 二度目のトラックの到来を待って木材を下ろし、今度はトラックの助手席に乗ってセンターの近くまで連れて行ってもらうと、日は落ちて辺りはすっかり闇に 包まれていた。われわれの宿舎はセンターの中に用意されており、ここには四、五人のアーティストが泊まっているはずである。電気の皓々と点いた玄関先で、 やはり自分の現場から帰って来たばかりらしいピエールがうろうろしているのに出会った。
「おい、誰もいないぜ、他の連中はみんな食事に出かけちゃったらしい」
ようやく誰かに会えてほっとしたとでもいう風にピエールは照れ笑いをした。われわれの中の最年長のアーティストである。展覧会は、アーティストの使う物は 企画側がすべてを用意する、という規定であったが、
「いくらすべて面倒を見ると言われても、他人は頼りにならない。自分の仕事の面倒は自分で見るのが一番だ」
と言って、彼は必要な道具という道具の一切を車に積んでリヨンからやって来たという。
「俺の車で、昼間ミシェルの言ってたセルフサービスに行くしかないな」
ピエールは、
「一緒に行こう」
と私を促した。かような僻地では、車が無ければ移動は殆ど不可能に近い。土壇場で困難を覆すのは、やはり彼が旺盛な自立精神を乗せてここまでやって来た彼 の車なのであった。
「道が分かればいいがなあ」
道具を積んだままのピエールのライトバンは、時折ガタガタと音を立てながら不安げに暗闇の雨の中を走り出した。

夜半から腹痛に苦しみ、やっとまどろんだと思ったらもう朝が来ていた。あちこち迷いながらようやく辿り着いたレストランで、セルフサービスの定食にしては 珍しいのに惹かれて、うずらのソース煮を取ったのがいけなかった。皿の上にうずらが形のまま煮られて並べられていたが、ナイフでつつくうちに胸の下に折り 畳まれていた頭がころんと飛び出してきて仰天をした。薄目を開いた苦しそうなうずらと目が合って、食欲が急降下した。空の胃が満たされないうちに胸がつか え、うずらに同情したわけではないが何も喉を通らなくなった。それがために起きた腹痛であったに違いない。

 朦朧とした朝、ディレクターのジェロームが伝言を携えて来た。
「ジェリイが他で用を足してくるから、大分遅れるそうだ」
ピエールの言う通り、確かに他人は不確実である。いつ来るか分からないアシスタントを待って、時間を空費してはいられない。見上げれば今にも水滴の落ちて きそうな薄暗い空の下、再び分厚い雨合羽を纏うと、バリバリと音を立てながらどのくらい掛かるか分からない現場へ向かって、一人歩き出したのであった。
ひらかわ しげこ