Shigeko Hirakawa

白 水社『ふらんす』 1999年9月号

平 川 滋子


《現代アートの必需品》 第六話 
展覧会

 <展覧会>と一口に言っても、内容は実にさまざまである。どの展覧会を取ってみても成立の仕方も内容も展覧会ごとに違う。ア−ティストが一生のうちにど れだけ展覧会をするか、人によってまるで違うので数値を割り出すことなどは不可能だが、二度三度同じ展覧会をまったく同じ状況でできたというア−ティスト はまずいないはずである。展覧会はア−ティストにとって、毎回が一期一会の重要性を宿していると言って過言ではない。

 展覧会を私流に思い切って分類すると、作家が亡くなってしまっている場合と、作家が生きている場合の二つに分けることかできる。作家がすでに亡くなって しまっている場合は、後世の人間がそれなりに解釈構成して展覧会を起こす。美術史的な解釈になるか、あるいは作家の生前の制作コンセプトを再現することに なるのか、いずれにしても企画者の考え方次第で並べる作品や空間など、すべてが決定することになるだろう。そういう展覧会には、亡くなった作家の意思はほ とんど反映しないと考えてよい。例えば今、セザンヌの隣にピカソのキュビズムの絵が並べてあっても我々はさほど抵抗なく鑑賞しているが、セザンヌが生きて いてこれを見たら、嫌がってピカソを隣からはずせ、と言うかもしれないのである。実際には、セザンヌが死んでしまっているから、どう思うのか分かりもしな い。死んだ当人の意向は、結局聞くわけにもいかず、企画者が企画の意図に合わせて並べるのが当り前のようになる。

 死んだ作家の意思や作品の概念にできるだけ忠実に再現しようとするのが展覧会の目的である場合も、作家の感覚に近づけるのは容易なことではないはずだ。 特に空間や環境にかかわる仕事などの再現は難しい。どんなに残留資料と突き合わせて頑張っても、頑張った人たちの解釈でしかない。作家の感覚に近づくとい うよりも、作品の元の在りように近づくのが精一杯だろう。それならいっそ現代人の今風の解釈で面白く粉飾して見せよう、という展覧会も出現する。こうなる と、大本の作家の真実からはまるでかけ離れたものになってしまう危険性もある。つまるところ、物故作家の作品をどう見せるかは、すべてが他人の解釈や他人 の意向に委ねられてしまっていると言っていいのである。

 作家の生きている間だけがその意思に触れることのできる期間といえるのであるが、一方作家が生きていても、企画者の意向に合った作品だけが展覧会の対象 になる場合もある。企画者が展覧会のテーマや方向性を決めたりするので、作家の意思は脇に置いてその作品だけがあればいい、という展覧会のときである。こ れなども、作品は作家が制作したものでありながら、その公開の意味が他人の手に委ねられてしまっている例である。

 やはり、作家が生きている場合には、展覧会は作家の意思を最優先したものでなければ意味がない。企画側と作家の二者がいて展覧会が成立するのであれば、 作家の考えを百パーセント開花させ、反映させて見せる企画、というのが作家にとっては一番ありがたい。仕事のコンディションやコンセプトを十分に話し合 い、制作の便宜を図ってくれるならいいが、時折、ああやった方がいいこうした方がいいなどと創る側の領分にはみ出してきては、ア−ティストにアドバイスを する企画者にぶつかることがある。アドバイスをされたからにはこちらも気兼ねして考えてみたりするのであるが、結局そんなアドバイスはまるで役に立ったた めしがない。他人のアイデアを考えた分、時間をロスするだけのことである。制作が忙しいときは、こういったアドバイスは却って有害である。作品はアーティ ストによって完遂されるべきで、その人がいくらいいアイデアだと思っても、やっぱり創造においては第三者でしかない人の意見は必ずどこかはずれている。創 作をする側にとっては、企画者の無言の信頼は何にも代えがたい助けのひとつなのだ。

 自分のアトリエで作った作品を会場に持って来て展示する、というのは一般的な発想だが、展覧会がそのまま創作の場になるといった、作家の制作にリアルタ イムに迫る展覧会もある。作家が出会った場所や環境からインスピレーションを受けてその現場で仕事をする場合などがそうだ。こういう展覧会では作家は大 方、展覧会のオープン直前まで作品を作っている。言ってみれば、展覧会と同時に作品が生まれる例である。

 そんな生きたアーティストのリアルタイムの創造を見せる展覧会には、二つのタイプがある。ひとつは、ギャラリーや美術館のように作品を置くために作られ た専門空間が会場となる場合。見に来る人もはっきりアートを見る目的でやって来る。アートが保護された環境である。もうひとつは、公園や市役所、駅やホテ ルなどといった元来まったく他の機能のために作られた場所が、変貌して作品を見せる場になる場合である。後者を、専門空間に対し、公共空間と呼ぶことにし よう。

 例えば今、駅のような公共空間に突然アートを持ってくるとしたらどのような事態に遭遇するだろう。公共空間はそれぞれ管理体系があるわけだから、管理者 の許可が必要だ。許可が得られたとしても、すぐ何をやってもいいというわけにはいかないはずである。駅の機能も尊重しなければならないから、作品をどう置 くか部署ごとに話し合いが必要である。作家が仕事をしていたら、何も知らされていなかった駅の職員に追い払われた、などということがあってはならないし、 作りかけの作品が清掃のおじさんに捨てられてしまった、ということもあってはならない。いざ作品が設置された後も、作品の管理の問題がある。普段駅には、 人は列車に乗ろうとしてやって来る。作品であるとはつゆ知らず荷物を置いたら潰れて壊れてしまったとか、作品が倒れかかってきて人が怪我をした、というこ とも起こりうる。専門空間などよりずっと事故の発生する恐れがある。作品を設置する前から作品が在る間中、環境へのあらゆる配慮と対策を講じる必要があ る。一旦、専門空間の保護枠を出て公共空間の中で仕事をしようとすると、かように社会のあらゆる管理の網にひっかかる。作品も危険に晒される率がはるかに 高い。そんなに大変ならば、安全な専門空間だけで仕事をすればいいではないか、と思う向きもあるかも知れない。しかし、どんなに冒険であっても、作家には <外>で作品を見せる大きい理由がある。時間がないとか興味がないとか、理由は様々だが美術館にはなかなか行かないという人も、駅に行ったことがない人は まずいないだろう。アートに触れる機会の少ない人々がアートと出会うチャンスを創り出すこともわれわれの仕事なのである。

パーマネントにせよテンポラリーなものにせよ、現代の社会空間に参加する作品の中からは、われわれと同じ世代に生きる作家の環境とのコミュニケーションの 跡が読み取れるはずである。それがどこであれ、今生きて制作している作家の生身の仕事に触れることができたとしたら、間違いなく一期一会の貴重なチャンス に出会ったと思ってよい。
ひらかわ しげこ