Shigeko Hirakawa

カ タログ『追われる水』 2001年
オリビエ・ドラバラー ド氏の文章

(平 川滋子個展)

追われる水、
生きているものの循環を体験する

 庭のある堂々たる邸悌といった風貌のマラコフのメゾン・デ・ザールのために作られた平川滋子の作品は、家の外から内へ、逍遥のうちに地面の下から空へと 見 る者を導いていくように、何幕かの場面に分かれたひとつの劇のように見るものなのだろう。
 このドラマツルギーは、作品個々の次元を決して損なわず、場所一杯に広がりを持っている。作品は、いかなる劇的効果にも耐えて存在している。一幕一幕 が、 演出過剰にならぬようにその役割を果たしている。その大方を水で構成され、その生成の内にもすでに特殊な循環の方法を備えた作品は、見る者の目を捉え、そ の体に刻み込まれるために効果的でなければならないのである。


 庭には、<服従した水>が、周辺が蛍光色の黄色で中央が鮮やかな緑をした巨大なレンズのように設置されている。「飼いならされ、自然から切り離され、閉 じ 込められて動かなくなった」水が、透明なビニル容器に入れられて、地下水の流れを追跡するために使用される物質であるフリーュオレセインで染められてい る。色をつけられた水は、アリアドネの導きの糸なのだ。この水のお陰で迷うことなく突きとめ、識別することができる。実験することによって経験に導かれる それである。水はこの人工色によって、逆により抽象的かつ普遍的な性質を与えられるのである。庭は、その両端を建物とコンクリートの柱の立つ池で垂直に断 ち切られ、両サイドを並木で仕切られている。作品は水平な動きを見せて(現場の縦の構築性との)根源的なずれを提示している。作品は、建てる、という古典 的な土壌にはないのだろう。作品は、信じがたい次元で庭を支配している。これらの色が、そのほかの環境の中に置かれたものどもやエコロジー的な解釈をさせ るようなあらゆるものから作品を遠ざけ、もうひとつの距離を生み出している。平川滋子はまた一方で、あらゆる自然主義的見方にも慎重である。作家は、庭が 人の手が加えられた場であり自然の空間ではありえないこと、庭はいわば作家がここにおいた水のように、また、噴水のように、人間に服従させられた空間であ ることを熟知している。この水のレンズのなかに見得るは、瞳孔かはたまたアイリスの虹か?まず見ることによって人は理解し自分のものにする。作家の眼差し は見る行為そのものを与え、見る者の眼差しはこれを受け継いで検証する。庭は精神的なものであり人が散策するものである、という見方。眼差しのようなレン ズ、はたまた瞳孔が、外の世界を反射して映し出し、内の世界に窓を開ける。円形の水は底の無い井戸のごとく、天と地を結ぶ。
 不思議の国のアリスのように入ろう!建物の一階に入ると我々は、インスタレーション作品<水-地下>に招き入れられ、薄暗い世界に潜 り込む。 フリューオレセインで色をつけそのなかに空気の泡を送り込まれた水の器をライトが照らし出し、天井に投げかけられる光の波をたよりに我々は歩き出すように 仕組まれている。作家が設置した装置は、あたかも研究室の化学実験のそれか、あるいは、錬金術師の秘密の作業場ででもあるかのように見えるかもしれない。 差し迫った危機感とやがてここから開放される予感のあいだでゆらぎながら、われわれは光に導かれて動いてゆく。潜水夫が海底の深奥の暗闇から上がってくる ときに感じるような思い、数メートルの水の厚みからようやく太陽の光を認めるときのような思いに通ずるであろう。建物の二階へと上昇を続けると、我々は水 の柱を上り詰める。多数の青い布の柱が綿密に計算された建築的な柱を構成している作品、<水-天>にたどり着く。日本では古代、「アメ」は雨と天の双方を 意味した。現実から遠く幻想に満ちたこの作品は、空間とマテリアルの使い方にその特色がある。再現にあらず、言及にあらず、かつまたシミュレーションでも ないこの作品は、現場の構造と方法論にぴたりと噛み合いつつ、ほかからの説明を寄せ付けず、自身の意味が内から発生するというような詩情あふれる作品の構 築なのであり、その命題提起なのである。平川滋子はインスタレーションの名称で便宜のためにひっくくるよう提議するときにおいても、世界とのつながりにお いてその根底から彫刻家である。


 作品<水の循環>は、総称的なタイトルといってもよいくらいだ。なんとなれば、このプロジェクト全般をひっくるめたものだからだ。庭で見たようにここで も フリューオレセインで色を付けられた水が容器の底の色によって緑や黄色に変化しながら、恒久的に閉じた循環をしている。水の循環、身体の循環、眼差しの循 環、そして生きたものの循環。イメージや感覚を作り上げるのに、特殊効果やトリックや、シミュレーションやらといったバーチャルなものをかたくなに拒みつ つ、平川滋子は我々の思いと交差するさまざまな水の循環を体験させてくれるのである。翻って言うならば、作家は、現実を知らしめるためではなく、現実より ももっと真にちかいリアリティ、ただ真実性や類似性を追究する姿勢などよりもまして真実に光を与えるようなリアリティのなかで制作するという、希求のただ なかで創造しているのである。平川が、過去のインスタレーションについて「生を真似するようであっては奇妙ではないか」といっていることを見れば分かるよ うに。


 私は、平川滋子の作品に、風景に興味を持つアーティストには稀有な大望に出会った。この作家は、ほかの誰よりも、アートが既に存在するような密度の高い 環 境の中で仕事をすることの難しさを心得ている。ほかの構築物と同じ次元に自分の身を置いてはいけないことをよく知っているのである。平川滋子はこの点で、 自然のマテリアルしか使わない作家たちや、自然にほんの少し手を加えるだけで何かがあるように見せかけて実は何も存在しないようなほかの作家たちとは隔絶 した対極にあるといえるのである。平川滋子はこういった状況にまったく引け目を持たない。あるのは、自然と対立する理性である。日本をその故郷に持った作 家の知覚は「母なる海」などといった特殊なロマンチスムは育まなかったらしい。
 人に与えるために、飼いならし、必要なれば服従させるという。平川滋子の作品は、我々の環境とのかかわりや、地球の我々の位置、そこで我々の意思を反映 さ せ立ち上げること、そして単にそこに住むことの難しさを物語っているばかりではない。つまるところそれこそが、環境の中に溶け合って、(それが大前提なの であるが)そこに宿ることのできる作家の仕事への問いへと回帰する問いであることをあきらかにしているのである。

2001年8月
オリビエ・ドラバラード
 
(翻訳: 平川滋子)