川が流れている。
町の中心を光を浴びて流れる水の彼岸には、その土手を取り囲むように青々と菩提樹が植え込まれている。
数ヶ月前に、人が死ぬのを初めて看取った。父が死んだのである。その顔を覗き込みながら、いつかいつかと待っているのがこの人の最期であるというのは尋
常のものではない。うつろな穴のような目を、どこかの写真で見た死人のそれのように既に重いまぶたが押しふさいでいて、瞬きもしない。誰の目にも確実に近
づいていると見えた死は、長い夜を越して思いもかけず明るい陽の中で訪れた。
それと同時にこの人の世界も瓦解した。父の身の回りに在ったものたちは、命のかかわりをもぎ取られてつながっりをなくし、ばらばらのものに過ぎなくなっ
た。それらは残されたものの記憶の中にそれぞれしまい込まれていって、大方のものが散り散りに闇の中へ隠されていったのだ。 突然の生の不在のなんと暴力
的なことか。周りのものたちは皆、死がこの世界にあまりに大きな穴を開けたことに動転した。
外側の事象世界は穴だらけの脈絡の薄いものが偶然に集まった不完全な世界であるということを決定的に見せつけておきながら、死は、それこそが世界の真実
のありようだと言い放つ。そうしてそのことは、私たちの内側にある精神の空間やその世界の統一がそれを夢見る私たちの「生」によってのみ形成されうるのだ
ということを同時に明らかにして見せている。死の認識によって立ち現れる、生の不思議とでも言うべきか。
この生きた菩提樹の下では、木の残骸が隠された記憶の中のものを引き出し、その現実の有機性が不在にとって代わる空間を
呼び起こすこ
とを期待する。残されたものを再び積み上げて穴を作ろうといった生を真似る作業であってはおかしい。不在や崩壊、欠如といったありのままの世界を、悟性の
明るみに出して認識することから始まる、木による新しい系譜作りと言い換えてもいいかも知れない。
認識をする悟性が作る空間を押し広げる作業である。
(作品: 「系統樹 / 死」、および作品: 「変容 / 生」、1997年 フランス、モン・ド・マルサン市)
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